哲学的思考1

哲学的思考 短編作 哲学的思考
哲学的思考 短編作

 弥一(みち)が、エレナ(Ellena)に出逢ったのは、弥一の事務所の最寄り駅だった。日本人離れした顔のパーツの大きさとマッチしない背の高さが、弥一には親しみやすい雰囲気だった。日本人平均身長の弥一は、雰囲気日本人、体は西洋人のエレナに一目惚れした。


 弥一が、エレナと初めて交わした言葉は、「ちょっと、いいですか?」だった。背後から聞こえた声に振り向いた弥一は、「は…」。「い」を発声するのを忘れるほど、エレナは超ドストライクだった。

 弥一は毎日、10時ごろから事務所に行く。その日も、最寄り駅のコンビニに寄ってから、事務所に向かうつもりだった。そのコンビニに入る手前で、運命の出逢いを果たしてしまった。

 エレナは、弥一の目線と同じ高さで、じっと弥一の眼を見ている。髪は毛先がバラバラのショート。この情報だけで、弥一は惚れるのに十分だった。言葉で表現できないほど、運命の出会いをあっさり、しっかり感じていた。

 「失礼ですが、モデルのご経験ありますか?」と、エレナは続けた。雷の様な衝撃を感じて全身に緊張が走っていた弥一は、「はい?」と、答えるのが精一杯だった。エレナは、弥一から緊張の表情を読んだ。すぐさま背負っていたバックパックをお腹側に回し、チャックを開け、名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出した。

 「私は、こういう者です。」と、名刺を受け取った弥一は、怪しいと心の中で呟いた。名刺には、エル・エンターテイメント(Elle Entertainment)代表エレナ・ブロック(Ellena Block)と刷られていた。そして、ふと住所を見ると、弥一の事務所があるマンションだった。弥一は、思わず

 「あ。これって…」と呟くように言うと、エレナは、

 「ここから直ぐのところに私の事務所があるので、そちらでお話ししましょう。」と、弥一に体を寄せて来た。カチンコチンになった弥一は、そのまま連れて行かれたのでした。


 エレナは、弥一を事務所の椅子に座らせて言った。

 「こんなことをして、ごめんなさい。でも、信じてください。あなたに悪いことはしません。」その悲しげで、切実そうな表情は、弥一の人を助けたい衝動的感情をくすぐった。

 「実は、撮影で出演する子が病気で、困ってるんです。」と、切り出された弥一は、頭は意外に冷静だった。

 「まだ、自分の名前も知らないのに…。必死か、嘘か。」と考えていた。

 必死なエレナは、続けた。

 「会ったばかりで、不躾なのは分かっています。でも、ちょうど病気になった子と年恰好が似ていたので、つい衝動的に連れてきてしまいました。本当に、すいません。」

 弥一の対面に座っているエレナは、頭を下げて、弥一を見上げながら、訴える。

 「今日の14時から撮影なので、そこに行って、代わりに出演してもらえませんか。」

 「弱い…なんて弱いんだ…。かわいい。好きな子を助けられるなら、まぁ、いっか。今日の仕事の予定は、明日にしよう。」と、上目遣いのエレナを見ながら、心の中で白旗を振った。完全に下心満載、思考停止の弥一だったが、職業上の意識は失っていなかった。

 「エレナさんが、お困りのことはよく分かりました。今、エレナさんが、現状を何とかしたいと言うお気持ちは理解できます。」そう言いながら、真剣に真っ直ぐエレナの眼を見た。

 「私は、鈴木弥一と言います。ここ、同じマンションで、相談業をしてます。職業柄、エレナさんの今おっしゃったお悩み解消の仕方をご案内したくなってしまいました。もし、よろしければですが、いかがでしょうか。」

 エレナは、怪訝そうに、

 「今日の撮影は、鈴木さんが代行していただければ、悩みは解消するんですけど…。」と、言ったが、弥一の話を聞かないと、撮影に行ってくれないかもと思い直し、

 「とりあえず…聞いてみます…。」と、答えた。

 「わかりました。では。」と、弥一は言い、話し始めた。

 「まず、エレナさんが、私に声をかける前から振り返ります。その時、エレナさんは、今日撮影に行くはずだった方が、病欠になり、とても焦っていました。何とかして、出演者を確保しなければいけない状況と理解していたはずです。そこで、駅前で私を見かけ、病欠した方と年恰好が似ていたため、強引に話を進めようとしました。」弥一は、エレナの感情的にならない様、ゆっくりと穏やかに伝えた。

 「そうです。その通りです。」と、エレナは全身で肯定した。

 「私が、相談業でお客様にお薦めしている悩みを解消するやり方は、1・2・3です。1は、感情が揺らぐ出来事が起きた時のことです。心配したり、イライラしたり、感情が揺らぐのは、必ずその前に何か出来事が起こっています。

 例えば、取引先から納品のプレッシャーを受ける電話があったから、心配になったとか、夕飯の献立を考えていたら、朝に夫と喧嘩したことを思い出して、イライラしたとかです。

 感情が揺らいだら、その感情を押さえ込もうとしたり、抵抗しようとしたり、抗うことをしないことです。ただ、感情を感じるということです。よろしいでしょうか?」エレナは、弥一に眼を見られて話されているが、あまり真剣には聞いていなかった。

 弥一は、続けた。

 「2は、感情が揺らいだ後のことです。感情を感じていると、そのうち、その感情が小さくなっていきます。そして、その感情の起伏が小さくなった後に、どうやったら楽しくなるかを考えて、自分の気分や機嫌を良くします。

 例えば、心配する気持ちがほとんどなくなったら、取引先への納品が完璧にできて、プレッシャーをかけてきた相手から、心から感謝されることを考えます。また、イライラが治ったら、喧嘩した夫が、謝ってきて優しく接してくれることを考えます。

 感情が揺らいでるうちは、何もしてはいけないと言っているのではなく、感情の起伏に対してだけ、抗うことはしない様にしてみませんかと提案しているのです。車を運転していて、感情が揺らいだから、車の運転を止めて、何もしないでいなければならないなどと誤解をしない様にしてください。

 感情が小さくなったら、都合の良い様に考えて、自分の気分や機嫌を取るということです。ここまでの内容で、分からないところはありますか?」弥一は、ふぅっと一息ついた。

 エレナは、自分の行動を振り返り、ちょっと普通のコンサルタントやカウンセリング、コーチングとは違うなと思い始めていた。

 「大丈夫です。どうぞ、続けてください。」と、答えた。

 弥一は、エレナの眼を見続けながら、また話し始めた。

 「3は、都合の良い思考の後のことです。気分や機嫌が良くなったら、今何をやりたいかを見つけて、発言したり、行動したりします。

 例えば、今やりたいことを考えたら、焦って納品を急ぐよりも、ひとつ一つ丁寧に確実に仕上げていきたいと思い立てば、それが答えです。また、夫が謝ってきやすい様に、つんけんした態度を取らないように接したいと思えば、それをするということです。

 大事なことは、心配やイライラなどの感情に抗った言動ではなく、自分の好きなこと、楽しいこと、やりたいことを言動するということです。

 一気にご案内しましたが、ご質問がなければ、もう少しだけお話しします。」と、エレナにボールを投げた。

 エレナは、

 「言ってることは、分かったわ。ひとつだけ、言わせてほしいことがあるんだけど。」と、無表情で言った。

 「なんでしょう」と、弥一は返した。

 「敬語じゃなくて、普通に話してくれると、もっと分かりやすいと思うの。」と、言ったエレナに、そこかいと心の中で、弥一はつっこみを入れた。

 「わかった。敬語は使わないで、次に進むよ。」と、エレナが頷いたのを確認して、話した。

 「最後に、エレナさんの今回の対応と、この1・2・3を照らし合わせるよ。」

 弥一は、前のめりに話し出した。

 「1の、エレナさんは、揺らいだ感情と、感情を揺らがせた出来事は、きちんと認識できていると思います。」

 エレナは、すぐに答えた。

 「そうね。弥一も言ってたけど、今日撮影にいくはずだった子が病欠になったってことが、感情を揺らがせた出来事ね。それで、それを聞いて、私は焦ったわ。瞬間的に脳裏に、撮影の穴を空けたら信用を失うぅとか、今後の売り上げに響くぅとか、心配になったわ。揺らいだ感情は、不安ってことになるのかしら。」

 「すばらしい。さっき言ったことを完璧に理解してる。その通りです。」弥一は、エレナの理解に、心から嬉しくなった。

 「次は、どうでしょう。2です。揺らいだ感情を感じ続けて、感情が小さくなったら、より気分良く過ごす。」と、弥一は言って、宙を見て少し考えているエレナを待った。

 「あの時は、とにかく何とかして撮影の穴を空けない様に、代行をどうしようかと、そのことばかり考えていたの。今思い返すと、ずっと不安だったと思う。揺らいだ感情が小さくなることはなくって、弥一を事務所に連れてきても、ドキドキは治らなかった。」と、エレナは心に素直に表現した。

 「おそらく、多くの人が、感情の揺らぎの原因となった出来事を変えようとして、言動しようとしたり、実際に言動しちゃうと思う。その出来事に関係している人や物を、自分の言動で何とか変えようとするし。それで、その関係している人や物が、変わるまで、揺らいだ感情は、ずっと燻り続けることになるんだよね。」と、言いながら、弥一は、エレナが共感し始めているのを感じていた。

 「そう。まだ心のどっかに不安がある感じがするかも。」と、エレナは言った。

 弥一は、ゆっくりと穏やかだが、はっきりした口調で、こう提案した。

 「私の言う通りにしないと、不幸になるとか、悪いことが起きて大変な目に遭うと言いたいわけじゃない。悩みや困りごとの解消を長く研究してきて、自分にとって良いことが起こりやすいって結果が、1・2・3なのね。エレナさえ良ければ、今やってみる?」

 エレナは、

 「とにかく、今は撮影代行のことを何とかしなきゃいけないの。弥一の方法をやれば、何とかなるなら、やる。」と、意気込んだ。

 弥一は、話し始めた。

 「エレナは、2から始めるよ。揺らいだ感情を感じ続けて、感情が小さくなったら、より気分良く過ごすってところね。今は、エレナの撮影代行への不安は、感情の揺らぎが小さくなってると思うから、より気分良く過ごすことをやってみよう。

  まず、今感じている感情の揺らぎは、無視する。だから、エレナの場合は、撮影代行をどうするかは考えないし、言動しないってこと。

  それで、無視したら、自分が楽しいことをやるだけ。例えば、楽しいことを考えても良いし、楽しく仕事をしてもいい。電話やメールでもいいし、何もしなくてもいい。感情が揺らがないで、心が平安な状態が続くことを選ぶんだ。

  一般的に楽しいって言うと、興奮したり、ワクワクしたり、笑顔になったりすることを連想するよね。だけど、ここで言う楽しいことって、好きなことと楽しいこと、やってみたいことなのね。溢れるほどの感情で、ドキドキしたり、笑顔になったり、体が動いてしまうほどの揺らぎがないことだよ。」

 エレナは、素直にそれだけ?と思った。少しの沈黙の後、エレナは聞いた。

 「何にも問題解決とか、トラブル対処の方法論だって感じがしないんだけど…。」と、エレナは心の中で、正直どうだろうと、不信感を滲ませた。

 しかし、弥一は、

 「そう。誰でも問題解決とかトラブル処理って、楽しいことじゃないんじゃないかな。もっと楽しいことがあると思うから、楽しくないことはしない方がいいの。目的や目標を達成するためじゃなくて、今楽しいと思えることを続けていくんだ。」と、被せた。

 「わかったわ。」エレナは言った。チラッと時計を見ると、11時3分だった。頭に撮影代行のことが浮かんだが、投げやりな感情も生まれ、弥一に、こう言った。

 「心が落ち着く、楽しいことでしょ。それなら、病欠の連絡を受けて、朝ごはんを食べ損ねたから、お腹が減ってるし。早いランチにするわ。」

 弥一は、

 「いいね。そういう感じ。じゃ、私は自分の事務所に戻るよ。ご飯を食べ終わって、何か話したいことがあったら来てね。」と、名刺を置いて、エレナの事務所を出た。

 「エレナです。話したいことがあるの。」と、エレナが、弥一の事務所に訪ねてきたのは、12時半ごろだった。弥一が、ドアを開けるなり、エレナはすっかり興奮して、笑顔で言った。

 「聞いて。さっきブランチを食べ終えて、少し怖かったし、どうしようかと迷いはあったけど…。」弥一は、良いことがあったと確信し、エレナの笑顔にデレた。

 「私、思い切って、好きなドライブに出てみたの。30分ぐらいだったんだけど、久しぶりのドライブで、気持ちが良くて、仕事のことを忘れられたわ。それで事務所に帰ってきたんだけど、そしたら、今日の撮影の製作会社から連絡があって、撮影が延期になったの。向こうは、申し訳ないって謝ってたんだけど、私は、笑わない様に必死だったの。で、電話終わってから、弥一が言ってたのは、これなのかなって思って、ありがとうも言いたかったし。とりあえず、ありがとう。」と、エレナは、弥一に満面の笑みを魅せた。

 「そうなんだよね。今の自分の状態に合わせた環境にどんどんなっていくって、感じるだぁ。心の平安が続くことを選べば、自分にとって良いことがずっと続くよ。簡単なんだけど、うまくいっている人を研究した結果なんだぁ。」弥一は、デレながらも、真面目風に答えた。

 「それで、これからも、ちょっと相談に乗ってほしいなぁって思ってるんだけど。よろしくお願いします。」と、エレナは笑った。

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